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医療の“生産管理”システムで世界を目指す
常に“切り拓いてきた”CEOの軌跡

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#医療コスト削減#医療DX#ビジョナリー経営

ドクターキューブ株式会社・小山 恭之社長にインタビューしました。
大手企業へ入社するも3年足らずで退職し、世界へ。帰国後、5度の製品立ち上げ失敗を経験したのちにやっと、現在の主力事業である診療予約システム『ドクターキューブ』を生み出した小山社長。
「働くとは、個人が社会にどれだけの価値を提供できるか試す行為」と語るその視線の先には、国内に留まらない壮大な未来図が描かれていました。常識に縛られず、自らの道を切り拓いてきた経営者の仕事観に迫ります!

ドクターキューブ株式会社
小山 恭之
ドクターキューブ/小山 恭之社長のプロフィール画像

1981年大阪大学大学院修士修了後、セイコーエプソン株式会社へ入社。退職、世界放浪を経て、1988〜1990年米国フロリダ州立大学コンピューターサイエンス専攻博士課程へ留学。
1991〜2000年システムコンサルティング業のかたわら、複数のシステム製品を開発・発表。2001年、ドクターキューブ株式会社を創業。

ドクターキューブ/小山 恭之社長のプロフィール画像

大企業を退職し、世界へ!常識に問いを立て続けた20代

小山社長にとって“働く”とは何でしょうか?

もちろん、生活の糧を得るための手段ではありますが、今の時代それだけでは満足できないでしょう。私にとって“仕事”とは、個人と社会の接点。“働く”とは自分が社会に対してどれほどの価値を提供できるのかを試す行為だと考えています。

人間には集団に所属し、そこで認められたいという根源的な欲求があります。仕事は、自分の持っているものを活かして創造的な価値を社会に提供し、その欲求を満たすための場なのではないでしょうか。

その考え方は、いつ頃からお持ちだったのでしょうか?

大学を卒業するころには何となくそう思うようになっていましたが、はっきり言語化できたのはここ数年です。そもそも人間は何のために生きるのかといったことは小学生の頃から模索していました。私の幼少期の日本はまだまだ貧乏で、人々の大部分は住む場所を確保して家族を食べさせるだけで精一杯で、生活は日々苦難に満ちたものでした。これほどまで苦しい思いをして、なぜ人間は生きるのだろう・・・という疑問からです。

エプソンにご入社された後、退職して世界を放浪されたと伺いました。

子どもの頃から海外に憧れていて、その頃は中学を卒業したらすぐブラジルに行こうと本気で考えていました。でも中学卒業が近づくとせめて高校は出ておいた方がいいと言われ、高校では大学に行ってからでも遅くないと言われ、エプソンに入社すると配属された部署では海外に行く機会がほぼないことが分かりました。このまま国内で埋もれてしまうのは耐えがたく、海外に出るなら今が最後のチャンスと思って辞めました。

周囲からは反対もあったのでは?

そうですね。
父との会話は今でも覚えています。当時朝晩二食付きで豪華な天然温泉も付いた社員寮にいましたので「飯付き風呂付きの生活捨てるんか?」と言われ、「お父さんにとって、人生とは飯と風呂だけなの?」と返したら黙り込んでしまいました。

世界放浪では、どのような経験をされたのでしょうか?

お金がなかったので、必然的にバックパッカーでした。
まずシベリア鉄道で途中下車を繰り返しながらモスクワに至り、さらに鉄道で東欧諸国を巡って東ベルリンに着きました。当時はソビエト連邦が健在でドイツは東西に分断され、首都ベルリンも1枚の壁で真っ二つに仕切られていました。
ベルリンの壁を越えて西ドイツに入り、そこからアメリカへ渡ったところでお金が尽きて半年ほどアルバイト。中古車を買って西海岸まで行って東海岸に戻り、ヨーロッパに飛んでアムステルダムからバスでパキスタンに向かいました。乗客のほとんどが出稼ぎのパキスタン人かアフガニスタン人で、バスはおんぼろでしたがカラチまで数千円という破格の安さでした。
ユーラシア大陸を陸路で一周するのが目標でしたがカラチで体を壊して数メートルも歩けなくなり、断腸の思いで日本に帰国して病院に駆け込むとウィルス性肝炎で、あと数日遅れてたら死んでいたということでした。医師からは「治っても一生酒は飲めんよ」と宣告されましたが、今はどんなお酒もおいしく飲んでいます。

ITの可能性を信じて_
5度の失敗の末に生み出した「ドクターキューブ」

帰国されてからはどうされたのですか?

肝炎が治癒するとロボットのベンチャー企業に入社しました。先端技術に取組めて面白かったのですが、会社は常に資金難で入社後1年半で倒産しました。ただ、ロボットの制御に使用していた「UNIX」という米国国防総省が作った先端システムに興味を持ち、これを続けたかったのですが、当時の日本では活用例も情報も少なかったため、再度渡米して3年ほど学びました。
再び帰国した時はもうすっかんぴんでお金が全然なかったため、就職する前にひと稼ぎとUNIXがらみのアルバイトをしたら面白いように稼げてしまった。それで自信をつけて自営でシステムコンサルティング業を始めました。

それが現在のドクターキューブに?

いいえ、世の中そう甘くはありませんでした。
コンサルはお金にはなりましたがしょせん他人のお手伝いですから何も残らない。
なんとかして社会を変えるようなIT製品をつくり、自分のブランドを冠して世に出したい・・・と、コンサルの合間を縫って自ら企画したIT製品の開発に取り組みました。

ITで解決できそうな社会課題はいっぱい目に付きましたので、その中で有効な解決策が提供されていない領域を狙って独自の視点で解決する製品を作るとすぐメディアに掲載され、様々な企業や研究機関から問合せが届き、説明に行くと大抵面白がってくれました。
しかし、だからと言って買ってくれるわけでも出資してくれるわけでもなく、そのうちお金が苦しくなって断念するということが続きました。
製品の仕様が課題の本質に迫っていなかったためです。
それでも次第に焦点が合うようになり、4作目、5作目ではある程度は売れ、評価もされましたが、本格的な普及に至る手ごたえはありませんでした。
ドクターキューブは第6番目の作品です。

なぜ、医療系のシステムだったのでしょうか?

ある医師との雑談がきっかけです。
「病院って待たされる所ですよね~」と何気なく愚痴ったら、「それは我々も問題だと思っててね、何千万円もかけてシステムを作った会社がいくつもあるんだけど、みんな失敗してるんだよ」と。なぜそんなに失敗するのか訊くと、こんな問題、あんな問題と解決できなかった課題を10以上列挙し、最後に、「変なこと考えちゃダメだよ、絶対失敗するからね」と念押しされました。
しかし話の途中で、挙げられた課題のほとんどは生産管理の問題であることに気付き、エプソンでの経験を思い出すとそれぞれの課題について解決策のイメージが次々に湧き上り、話が終わるころには「これは作れる!」という確信になっていました。
自宅に帰ると一気にプログラムを作り始め、しばらくしてプロトタイプをその医師に見せると「それだよ、それ!」と大変喜んでくれました。後日知人の医師を8人集めて説明会を開いてくれ、うち6人がまだ完成もしていないのにその場で発注してくれたんです。「そんなにニーズがあるのか」と驚き、これは長年求めていた「社会を変えるIT製品」になる・・・と手ごたえを感じたため、他の仕事は順次止めて診療予約システムに集中する体制に移行していきました。

日本のソフトウェアで「医療コスト削減」という
世界的課題に挑む

多様な経験を重ねられてきた小山社長から、若者が会社を選ぶ際にどのような基準を持つべきかアドバイスをいただけますか。

「良い仕事、良い人、良い文化」を会社選びの基準にすべきです。
自分を活かして社会に最大の価値を提供できる「仕事」、尊敬できる上司・先輩や肝胆相照らす同僚など、信頼できる「人」。自身と社会とを良質で前向きな関係に保つ良い「文化」。
目に見えてわかり易いのは仕事・人・文化の順ですが、人生への影響度では逆に文化・人・仕事の順でしょう。これは前者ほど無意識層に浸透するので意識されにくいのですが、日々の行動、判断に無意識のうちに影響を与え、その後の人生を大きく左右するからです。

私がエプソンにいた期間は3年にもなりませんが、「難そうだから止めるではなく、できるところまでやってそこで考える」「常に主導権を持って独創的な仕事をする」といった当時の文化は、今の会社でもそのまま継承されています。若い頃に身を置いた会社の文化は、ずっと染み付いて離れないものです。会社選びは仕事だけでなく、人や文化も同等またはそれ以上に大事にすることを強くお奨めします。

ドクターキューブの今後の展望についてお聞かせください。

三つの段階に分けて考えています。
まず第一段階として、国内のクリニックへのシステム普及をさらに推し進め、普及率を現在の20%から60%以上に引き上げます。これにより、クリニックは予約できるのがあたりまえという社会にします。

次に第二段階は、「病院」にも予約システムを普及させます。
全国に約1万件ある病院は、クリニックよりマーケットサイズが大きく、IT化による生産性向上効果も大きいのですが、診療科が多く分業が進んだ高度で複雑な運用に耐えるシステムがまだ世の中にありません。当社は再来年には病院専用のシステムとサポート体制を構築し、この大きな市場に挑みます。

第三段階は海外です。
人口減と高齢化による社会保険料の負担増は日本に限らず先進国共通の深刻な課題です。
当社の「生産管理型予約システム」はこの課題の解決策として海外でも活躍できそうなことがわかってきたため、病院対応に目途が立った段階で海外に打って出るべきと考えています。最初の進出先はアメリカ西海岸を予定しています。ITの本場アメリカ西海岸で認められれば世界で認められるため、世界展開の時間を短縮できます。日本国内の事業にも好影響を与えるのは言うまでもありません。
これまで日本のソフトウェアは国際競争力がないと言われ続けてきましたが、闘い方が正しくなかっただけです。ソフトウェアには製作者の美意識、価値観、文化が反映されます。自らの強みを明確に意識し、これを活かす闘い方をすれば勝てるはずです。
日本でも世界で闘えるソフトウェアを作れることを証明するのが、生涯の最終目標です。

編集後記

小山社長が何度も口にされた「面白い」という言葉が心に残っています。
世界放浪からドクターキューブを生み出すまで。すべての意思決定の根底には、好奇心があったのでしょう。「面白い」という直感を信じて行動し続けた結果が、今のドクターキューブを形作っているのだと感じます。
小山社長から、予測不能な道を歩むことの厳しさと、それ以上に大きな喜びがあることを教えていただいたような時間でした。

編集:佐藤 由理

「ドクターキューブ株式会社」概要

2001年設立、大阪府大阪市北区に拠点を置き、診療予約システムを専門に開発・販売・サポートを行う日本の企業。診療予約システム専業の開発会社で、販売、保守までを一貫して自社で行っている。全国主要都市に拠点を持ち、同分野でトップシェアを保持している。

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